ペルシア帝国の都ペルセポ

 リス、かつての世界の半分、   イスファハン

 北と西には4,000メートル

 の山々が連なり、

 東部に広大な砂漠が広がる

四季の美しい風景の中で、ペルシア文化、独自のイ

スラム文化を育んで来た~

出かけよう!イスラムの

教えのもと心温かき人々

が平和に暮らすイランへ



世界遺産の村  メイマンド


メイマンド (ペルシア語: ميمند‎, ラテン文字転写Maymand, Meimand, Maimand)[1]は、イランのケルマーン州 シャフレ・バーバク郡(英語版)に属する行政村(デヘスターン)およびそこに含まれる村(デフ)の名前である。36の村が属するメイマンド行政村 (Meymand Rural District, ペルシア語: دهستان ميمند‎) には、2006年の国勢調査では536世帯2,175人が暮らしており、そのうち、メイマンド村には181世帯673人が暮らしている[2]。メイマンド村は伝統的な移住農牧業が営まれている村落で、その文化的景観がUNESCOの世界遺産リストに登録されている。

マイマンドとも表記される[3][4]。なお、以下「メイマンド」と呼ぶときは、行政村(デヘスターン)でなく村(デフ)の方を指す。

メイマンドは季節性の移住生活を営む半遊牧民たちが暮らし、冬場には岩場を掘った岩窟住居で過ごしている[5]。地元の言語には、古代のパフラヴィー語などに由来する語彙が多く含まれる[6]。

ケルマーン州のシャフレ・バーバク市近くに位置するこの村落の歴史は非常に古く、12,000年前にイラン高原で最初に人々が定住した地と言われることもある。しかし、国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) はこの主張に否定的で、数少ない物証のひとつとされる岩絵にしても、紀元前6千年紀までしか遡れないと指摘している[7]。また、岩絵を描いた人々と、岩窟住居で暮らしていた人々との関係性も解明されていない[7]。

岩窟住居群の起源については、いくつもの説があり、Siamak Hashemi は以下の2つの仮説を示している[8]。

まず、この村がアーリア人によって、紀元前800年から700年頃、すなわちメディア王国の時代に建設されたというものである。メイマンドの断崖の構造物は宗教目的で建造された可能性がある。ミスラ神の崇拝者たちは太陽を無敵の存在と信じており、この観念が彼らに山々を神聖視させることへと導いた。ゆえにメイマンドの石切り職人や建築家は、彼らの信仰をその住居の建設の形で示したのである。[8]

第2の仮説では、村落は西暦2ないし3世紀に遡ることになる。アルサケス朝時代、南ケルマーンの諸民族は、めいめいの方向へと移住した。これらの民族は生活に適した土地を見つけ、そこに定住し、隠れ場所を築いた。それらがついには現存する住居群へと発展した。村の近くにあるメイマンドの要塞と呼ばれる場所からは、サーサーン朝時代の骨壷150個以上が発見されており、こちらの仮説を補強している。[8]

ほかにも村落の墓所からの推測として、イスラームの伝播以降の形成という説などもあるが、結局のところ、はっきりとした起源の特定には至っていない[7]。

洞窟住居は全部で400ほどが残されているが、今も利用されているのはそのうち100に満たず、伝統的半遊牧生活は継承に対する懸念が存在している[9]

2005年にメイマンドは、文化的景観群の保護・管理に関して、メリナ・メルクーリ国際賞を受賞した[10]。2007年8月9日には世界遺産暫定リストに記載され、2012年1月30日に正式推薦された[11]。しかし、文化遺産の諮問機関であるICOMOSは比較研究の不足などから顕著な普遍的価値を証明できていないとして、「登録延期」を勧告した[12][13]。しかし、2013年の第37回世界遺産委員会ではメイマンドの伝統的生活様式に対して、委員国からは少なからず驚嘆や称賛の声が挙がり、21か国中8か国が逆転登録を支持するなど、意見が分かれた[14]。最終的には勧告よりも一段階上の「情報照会」決議で落ち着いた[15]。

イランは2015年1月29日に練り直した推薦書を再提出した。これに対してICOMOSは顕著な普遍的価値の証明がなされたものと判断し、「登録」を勧告した[16]。その年の第39回世界遺産委員会では、短期間で適切な再推薦に漕ぎ着けたイランとICOMOSの努力を称賛する声などが上がり、問題なく登録が決議された[17]。2013年の審議の時には、危機遺産リストへの登録を推す委員国もあったが[18]、2015年の正式登録では、危機遺産リストへの登録は伴わなかった。

イランはこの年、スーサの登録も果たしており、イランの世界遺産は19件となった。