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    <title>エジプト旅行・イラン旅行・モロッコ旅行  Ｎaima Travel　ナイマトラベル</title>
    <link>http://www.naimatravel.com/</link>
    <description>エジプト旅行・イラン旅行・モロッコ旅行は、Naima Travel（ナイマトラベル）へ</description>
    <language>ja</language>
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    <category>Weblog</category>
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      <title>エジプト旅行・イラン旅行・モロッコ旅行  Ｎaima Travel　ナイマトラベル</title>
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    <item>
 <title>イラン入国観光ビザ</title>
 <link>http://www.naimatravel.com/?itemid=790</link>
<description><![CDATA[イランの旅の始まりは、ますビザの取得から<br />
 Naima Travelにて、イラン入国観光ビザの取得代行を承ります。<br />
<font color="red"size="1">※ビザ取得に関する情報は、予告無く変更になる場合があります。</font><br />
<a href="http://www.naimatravel.com/media/2/20080729-iran_pelsepolis rerifu.jpg"></a><br />
<br />
<br />
イラン国内を個人旅行、自由旅行される場合は、東京にあるイラン･イスラム共和国大使館へのビザ申請の前に、テヘランにあるイラン・イスラム共和国外務省への事前申請が必要となります。詳しくは、在日イラン・イスラム共和国大使館へお尋ね下さい。（TEL 03-3446-8021  内線７７）　　<br />
<br />
<br />
　<b><font color="#294988">イラン入国観光ビザ取得のために必要なもの</font></b><br />
1.事前のテヘランにあるイラン･イスラム共和国外務省へのビザ取得のための<br />
　承認申請　<b>※</b>団体旅行の場合は事前申請の必要はありません。<br />
２.有効なパスポート<br />
　イラン入国時、残存期間が６ヶ月以上で、両面見開きで余白ページが必要　<br />
３.ビザの申請書１枚<br />
４.写真: ３×３ｃｍ　１枚<br />
５.パスポートの顔写真のページのコピー１枚<br />
６.ビザ代実費（７，７５０円　２００８年８月現在）を先にイラン大使館に<br />
　振込み支払い、その控え(オリジナル）ネットバンクでの振り込みは不可です<br />
７.返信用（パスポート返却用）の封筒（書き留め金額の切手を貼っおくこと）<br />
　<b>※</b>ご自身で東京のイラン大使館にてパスポートの引き取りが可能な方は必要<br />
　ありません。　<br />
８.独身女性がビザ申請をする場合には、イラン国籍の男性と婚姻の届出をして<br />
　いない旨(既婚暦の無い旨）の誓約書に署名捺印をして添える方がスムーズ<br />
<br />
<b>※</b>イラン入国観光ビザの有効期限は、ビザの取得から３ヶ月間です。<br />
<b>※</b>ビザの取得には、ご出発までのお日にちに充分余裕を持って手続きに望んで<br />
　ください。イラン･イスラム共和国外務省、イラン･ イスラム共和国大使館の<br />
　所事情により取得までに日数がかかる場合があります。<br />
<br />
<br />
<br />
Naima Travelでは、テヘランにあるイラン・イスラム共和国外務省へビザ取得ののための事前承認申請手続き、及び東京にある在日イラン・イスラム共和国大使館へのビザ発給申請手続き等の渡航手続きの代行を承りますが、渡航手続きの代行のみ単独ではお引き受けできません。必ずイラン国内の何れかの旅行サービスの手配（有料）とご一緒のお申込みをお願い致します。<br />
渡航手続代行料金、その他料金の詳細は、お気軽に<a href="mailto:info@naimatravel.com">メール</a>にてお問合せ下さい。]]></description>
 <category><!-- 01 -->お役立ち情報</category>
<comments>http://www.naimatravel.com/?itemid=790</comments>
 <pubDate>Wed, 7 Jan 2009 12:13:29 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>イランの料理</title>
 <link>http://www.naimatravel.com/?itemid=789</link>
<description><![CDATA[イランは古来よりペルシア、アラブ、トルコ等多くの民族が行き来したのでその料理内容にも多様性が見られる。しかし、現在ではそれらが少しずつ混ざり合いイラン全体での共通の料理、いわゆるイラン固有の料理が出来上がってきた。<b><font color="#294988">イラン料理の特徴の一つは煮込み料理</font></b><br />
羊肉、鶏肉と季節の野菜に季節の果物（果汁）も一緒に時間をかけて煮込んだ料理は、イラン料理の中心。いわゆるシチューであるが、時間をかけてゆっくりと煮込んだ料理は、肉もとろけるように柔らかく、味がしみこんでいて美味。　<b>ホレシュテ・バーデムジャーン</b>・・・トマトとナスのシチュー、<b>ロレト</b>・・・ハンバーグのトマトソース煮込み、<b>ホレシュテ・サブズィー</b>・・・肉の煮込み、<b>アーブ・グーシュト</b>・・・壷の中で煮込んだシチューに野菜やナンを細かくちぎって入れ、それを専用の棒でつぶして混ぜて食べる、<b>スーぺ・ジョウ</b>・・・煮込みではないが、イランの代表的な大麦のスープ　　など、など、、、<br />
<br />
<a href="http://www.naimatravel.com/media/2/20090107-iran kebabu 1.jpg">null</a><br />
<br />
<b><font color="#294988">肉の串焼き、ケバブ</font></b><br />
羊肉、牛肉、鶏肉、時には魚を串焼きにするケバブは、こんがり焼けた肉の香りが香ばしい。　<b>ジュージェケバブ</b>・・・鶏肉のケバブ、大変一般的、<b>フィーレケバブ</b>・・・牛肉のケバブ。香草とともに食べる　など、など、、、　焼いた肉をパン（ナン）のはさんでケバブサンドにして食べたりもする。<br />
<b><font color="#294988">パン（ナン）と米</font></b><br />
イラン人の主食は、ナンと呼ばれるパンで、厚めのもの（バルバリ）と、薄めのもの（ラヴァーシュ）がある。熱した石の上で焼くのが一般的。稲作も北部（カスピ海沿岸）では盛んでその頃の風景は日本の水田と大変よく似ている。<b>チェロウ</b>とは、白いご飯のことでバターやサフランを混ぜたりして、また、ゼレシュクという赤い実をのせたりして、シチューと一緒に食べる。また、<b>ポロウ</b>と呼ばれる炊き込みご飯もよく食べられており、ハーブやソラマメを混ぜたポロウのころを<b>バーゲラ・ポロウ</b>という。サフランライスのおこげも美味。<br />
<b><font color="#294988">一日の食事</font></b><br />
朝食は、ナン、ハチミツ、ジャム、バター、ヨーグルト、そして紅茶が一般的。昼食は、今でこそ少なくなってきたが、学校のこども達も、外で働いている人達もうちへ帰り、家族と共にとるのが一般的。その時メインになるのが、煮込み料理とポロウや、またはケバブとチェロウを食べながら、時には生のタマネギを一緒にかじったりもする。イラン人の平和な日常のお昼時である。夜は、比較的軽めに済ませることが多い。ナン、ヨーグルト、卵料理屋や季節の果物を沿え一日の疲れを癒す。この時もチャイ（紅茶）は、欠かせない。<br />
]]></description>
 <category><!-- 02 -->文化</category>
<comments>http://www.naimatravel.com/?itemid=789</comments>
 <pubDate>Wed, 7 Jan 2009 12:08:57 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>チャドルとスカーフ</title>
 <link>http://www.naimatravel.com/?itemid=786</link>
<description><![CDATA[外国人観光客でも女性は、イラン国内を旅する時はスカーフなどで髪の毛を隠し、なるべく体の線のでないゆったりとした上着や、丈の長いスカート、ズボンなどを着用するようになっている。  <br />
外国人観光客でも女性は、イラン国内を旅する時はスカーフなどで髪の毛を隠し、なるべく体の線のでないゆったりとした上着や、丈の長いスカート、ズボンなどを着用するようになっている。  <br />
 <br />
<a href="http://www.naimatravel.com/media/2/20080728-iran_gom reibyo 1.jpg">null</a><br />
<br />
<b><font color="#294988">チャドル</font></b><br />
半円形に布地を継ぎ合せ、全身を覆う布のことで、色は黒を中心に、模様の入ったものや黒以外の色のものもある。　木綿のものから少し厚手のものまで有る。　イランでは体を覆うものをへジャーブという。　黒のチャドルは、外出着、フォーマルな場所で使用される。イランの女性は子供の頃から、チャドルを身につけているので上手にチャドルをまとう。　チャドルもそのままではずりおちてしまうので端を口にくわえたり、チャドルの裏にゴムやマジックテープを付けて頭に引っ掛けるようにしたりしている。　イランでは、女性は自分の親兄弟、夫、子供以外には体の覆う部分は見せてはいけない事になっている。　女の子は何歳くらいから体を覆うのかというとまちまちだが、小学校に上<br />
　がる頃にはスカーフで髪の毛を覆ったり、マグナエと呼ばれる頭巾のようなものを被る。　地方とテヘランなどの大都市では、やや違うが、大都市では高校生以上になるとコートとズボンにマグナエ姿が多いが、地方ではチャドル姿が多く見られる。　チャドルのスタイルも地方により色々な特徴が見られる。　南部の湾岸地方では、スカーフをして尚かつ独特のマスクをつけて顔を隠す。　またこの地方では夏の暑さの為、チャドルもレース地のものもある。　ウズベキスタンの国境近くでは、花柄の大き目のスカーフをしている。<br />
<br />
<b><font color="#294988">女性が体を隠す習慣</font></b><br />
イランだけではなく、女性が体を覆い隠す習慣は他のイスラム諸国でも見られる。　これは、イスラムの聖典「コーラン」にその記載があるので女性達はそれに従う。　しかし、イスラムの出現以前にもすでに女性は、人前で安易に体や顔をさらさない習慣はあったではないだろうか。　日本でも中世の頃の貴族の女性達は外出時は体を覆う衣服を着用していた。　顔や体を見せるのは夫など特定の男性に限られていた。　イランでは、アケメネス朝期、貴族・上流階級の女性はベールを隔てて他人と会うのが一般的だった。　一般庶民からの隔離のためにベール、すなわち覆いものが使用された。　これがイスラム期に入り、貴族・上流階級の習慣であった覆い・・・すなわちチャドル着用の習慣が一般庶民にも浸透していった。　当初の覆いものは、顔もすっぽりと覆い隠す丈の長いものだったという。　しかし、１９世紀になると、ヨーロッパ文化の影響もあり、おしゃれの一端として短い丈のチャドルを着る女性も現れた。　現在イランで、公の場では全身隙間もなく覆い隠した女性が自宅で覆いをとると、下はT?シャツ、短パンなどという姿も実は少なくはない。　チャドルは、男性を無用に迷わすことが無いように、女性らしい部分を隠し、女性の行動、個性を制限してしまうが、その一方で女性を保護している。　女性は保護されるべきものであり男性の保護の下に置かれる。　これは男性中心の社会の発想ではあるがと同時に女性保護の社会でもある。　体を覆い隠すことにより女性らしさが隠されるが、その反面、階級や美醜も覆い隠す。　隠すことにより、その下の隠された容姿をより神秘なものとする。　日本や欧米の女性達は、体を露出することにより自分をアピールするが、イラン及び、イスラム圏の女性達は、体を隠すことによりより自分の魅力を高める。　大きな考え方、表現の違いである。　体を覆い隠すことにより貧富の差を隠す。　チャドルの下にどんなみすぼらしい服を着ていても、またどんなに高級な服を着ていても外からはわからない。　チャドルは貧富の差を隠す。　しかし、レザー・シャーの時代には、チャドル着用が一時禁止された。　チャドルがボロ隠しの道具とみなされ、その後進性が否定されたのである。　この時真っ先に反対したのが下層階級の女性達であったという・・・・<br />
<br />
<b><font color="#294988">チャドルとスカーフ</font></b><br />
体を覆い隠すチャドルやスカーフは、イスラム世界での女性隔離や差別の象徴として欧米ではイメージされているが、イランにおける隠す習慣は、私達の現認識以上の長い歴史とそこには実用性もある。]]></description>
 <category><!-- 02 -->文化</category>
<comments>http://www.naimatravel.com/?itemid=786</comments>
 <pubDate>Mon, 5 Jan 2009 17:13:41 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>イラン革命と ・・・ 　その後</title>
 <link>http://www.naimatravel.com/?itemid=784</link>
<description><![CDATA[１９７９年２月２１日イラン王政最後の内閣が倒れ、イラン革命が成就しました。その後、それまで一致団結して革命の成功に力を合わせてきた諸勢力が指導権をめぐって争いをはじめます。１９７９年２月２１日イラン王政最後の内閣が倒れ、イラン革命が成就　しました。　その後、それまで一致団結して革命の成功に力を合わせてきた諸勢力が指導権をめぐって争いをはじめます。　しかし、やがてホメイニ師を指導者とするイスラム共和党が、単独の支配体制を成立させたことにより一応の収拾がなされます。　イスラム共和党と敵対していたバニーサドル大統領はフランスに亡命し、彼を支持したゲリラも一掃されました。　ここに、ホメイニ師を最高指導者とするイスラム法の下での国家体制が出来上がったのです。  <br />
   <br />
 <a href="http://www.naimatravel.com/media/2/20080728-iran_imamu homeini byo 1.jpg"></a><br />
<br />
<br />
<b><font color="#294988">イラン革命と ・・・ 　その後</font></b><br />
イラン革命後のイランでは、イスラム法の施行によるイスラム社会を目指すことにより、欧米の文化はことごとく排除された。　アメリカは「悪魔」とされ、ネクタイ姿も西欧の象徴とみなされ排除されてしまった。　その後イスラム共和党の単独体制の元、その内部で統制経済を求める若手のウラマー（イスラム聖職者）達と自由経済を求める商人や高位のウラマー達との間で、小競り合いがはじまってしまう。　しかし、ホメイニ師はそのどちらにも付かず、均衡の姿勢をとる。　そのためしだいにイスラム共和党事態の存在意義がなくなってしまい、１９８７年に休党宣言を出すに至る。<br />
<br />
<b><font color="#294988">イラン・イラク戦争・・・・　と、</font></b><br />
１９８０年９月。イラクが国境を侵し、イラン国内に進軍しイラン・イラク戦争が始まった。　当時はまだイスラム共和党の政治的体制もかたまっておらず、アメリカ大使館の占拠事件から欧米がイランに経済制裁を加えている最中で、そんな矢先にイラクに国境領域を占領されてしまった。　イスラム共和党はその国内での支配体制を固めると、本格的な反撃に移り、主な領土を奪回し、１９８２年にはイラクに向けての進攻を開始した。　しかし、国内での守りを固めたイラクの前でイランはそれほどの戦果も、結局上げられなかった。　イランの外貨収入の９割は石油収入である。　しかし、石油の産出量は、革命後は以前の四分の一に減少してしまった。　石油価格が上昇したため、何とか乗り切<br />
　れたもののイランの国内総生産もこの石油収入に大きく左右された。　革命時マイナス成長となった国内総生産は、石油収入が回復した１９８２年?８３年には、１０％の成長があった。　しかし、１９８６年には再びマイナス１０％台に落ちてしまった。　平均すれば、革命後の国内総生産の成長率はマイナス０．７％というこになってしまった。　金融の面では、イスラム銀行制度が導入されたが、イラン・イラク戦争とも重なりイランの経済は急速に悪化してしまった。<br />
<br />
<b><font color="#294988">ホメイニ師</font></b><br />
１９８８年、悪化するイランの経済情勢のもとホメイニ師は、それまでイスラム法が政府の政令に優先するとしていたが、政府の政令がイスラム法に優先するという見解を示した。　そして次に、１９８８年夏、イラクとの停戦を決断した。　イランがイラクに占領された領土を奪回した時点で、「なぜ戦争を終結しないのか。」　という批判もホメイニ師は国内で受けていた。　しかし当初ホメイニ師は、「イスラム信徒と不信心国家イラクとの戦いであって、単に領土の問題だけではない。」　と述べていた。　欧米の国々が持つ「領土」という概念の上にイスラム的概・価値感を備えての戦いであった。　しかし、国内の経済状況の悪化を食い止めるためにホメイニ師は、自分の見解を曲たのである。　ホメイニ師にとっては苦渋の決断であったであろう。　しかし、その後も彼の努力は続けられた。　１９８８年９月、ホメイニ師は楽器とチェスを解禁した。　宗教的道徳に反しないことという条件つきではあったが、彼はイスラムの思考を現代社会にもうまく適合させようと努力をした。　しかし、こうしたホメイニ師の政策に不満を抱くイスラム法学者もいた。　もはやホメイニ師には何の期待もなく、時期最高指導者であるモンタゼリー師に早くも期待をつなぐ輩も出てくるようになってしまった。　しかし、モンタゼリー師は半年後に辞任に追い込まれてしまう。　しかし、モンタゼリー師の解任は、ホメイニ師にとっても先の決断と同様に苦渋の思いでの決断であったという。　モンタゼリー師辞任後の１９８９年６月、ホメイニ師は８４歳の生涯を閉じた。ホメイニ師の後を継ぐ最高指導者の席は空席のままであった。　<br />
<br />
<b><font color="#294988">後継者</font></b><br />
最高指導者は、イスラム法学者の最高権威者でなければならないと、憲法で定められている。　しかし、ホメイニ師以外の宗教的権威者は、ホメイニ師の弟子であったモンタゼリー師以外はホメイニ師の体制を必ずしも認めていなかったので、彼らを後継者とするわけにはいかなかった。　そこでホメイニ師が亡くなった後、憲法の見直しと改定がなされ、宗教的階級は下位ではあるが、ハーメネイー師が最高指導者に選ばれた。　１９８９年夏、ハーメネイー師が最高指導者になるとともに、ラフサンジャー二ー師が大統領に選出された。　彼は、自由経済政策をとり、外貨の導入を求める政策を打ち出した。その結果、始めの４年間は国内総生産８．１％の伸び率で一応の成功を収めた。　　しかし、原油生産量は増えたが、問題はこれを上回る輸入の増加であった。　その結果２３０億ドルの赤字を抱えることになり、輸入抑制策に切り替えた。これが結果としてイラン経済を圧迫することになってしまった。　政府は、経済再建に乗り出すがうまくいかず、１９９０年代初頭には、各都市で経済不安から暴動まで起こってしまった。　１９９３年、ラフサンジャー二ー師は第二期目の大統領に就任し、自由経済賛成派と手を組み再び経済の建て直しをはかる。　これにより状況はやや上向き加減に変わる。　１９９７年時点での国民一人当たりの国内総生産は、１７８０ドルで、エジプトより７００ドル高く、トルコの６割であったという。　ホメイニ師時代には、統制経済賛成派と自由経済賛成派が対立し、ホメイニ師自身は中立的立場をとっていた。　しかし、ラフサンジャー二ー師は自由経済賛成派と手を組んだため、１９９７年の大統領選挙では自由経済賛成派の勢力に反発する人々が、ハタミ師を推した。　ハタミ師は、革命を知らない若い世代と女性の支持を得て大統領に選ばれた。　　　・・・・・・・　　そして、その後は、、、　現在のイラン・イスラム共和国に至る　。。。]]></description>
 <category><!-- 01 -->お役立ち情報</category>
<comments>http://www.naimatravel.com/?itemid=784</comments>
 <pubDate>Mon, 5 Jan 2009 16:59:18 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>イラン男性のヒゲ</title>
 <link>http://www.naimatravel.com/?itemid=782</link>
<description><![CDATA[ぺルセポリスにあるレリーフの兵士達は皆、濃いヒゲを蓄えて描かれている。しかしアケメネス朝の兵士達の中には、　エジプトの王のように付けヒゲをしていた人もいたのではないだろうか・・・・・<br />
<b><font color="#294988">イラン男性のヒゲ </font></b><br />
ぺルセポリスにあるレリーフの兵士達は皆、濃いヒゲを蓄えて描かれている。しかしアケメネス朝の兵士達の中には、　エジプトの王のように付けヒゲをしていた人もいたのではないだろうか・・・・・<br />
　　 <br />
<a href="http://www.naimatravel.com/media/2/20080729-iran_pelusepolis rerifu 2.jpg">null</a> <br />
 <br />
イランでは、王者は肉体的に完璧でなければ王になる資格がない。　ヒゲの薄い、あるいは禿げの王様ではその権力も半減。　現在のイラン人の男達の中には意外と若禿げの人が多い。　毛はえ薬やアデランスを愛用している人も居るようである。　アケメネス朝の王達はいつも頭に王冠をかぶっていた。その重さはかなりのもので普通の人より早く禿げたのではなかろうか？！　マケドニアのアレキサンダー大王は、部下にヒゲを生やすことを禁止していた。　戦いの時に敵にヒゲをつかまれると不利になるからである。　しかしながら、アレキサンダー大王自身は立派なヒゲを蓄えている。　古代からヒゲは権威の象徴であった。　ペルシア語で「リーシュ・セフィード」というと長老を表し、「彼はヒゲがない」というと威厳がない・・・信用できないなどの意になる。　「彼のヒゲを握る」というと、彼を意のままに操ることを意味する。<br />
パーラビィー王朝を創始したレザー・ハーンは、１メートル９０センチの長身で、人を威圧するにふさわしい体格であった。　しかし、彼の息子であったモハメットは、父親とは違いどちらかというと貧相な体格であった。　いつもシークレットブーツを愛用し、写真を撮るときはできるだけ長身に見えるようにカメラマンに注文をつけていた。　背が低いことが彼にとっての劣等感であった。　クレオパトラの鼻が低かったら何と・・・という話があるが、彼の背があと１０センチ高かったら、イランの将来は違っていたかもしれない。<br />
<br />
<b>ヒゲの意味するところ</b><br />
イラン革命の前後の時期には、イランの男性のヒゲはその人の政治的立場の象徴であった。　アゴヒゲは保守的なイスラム教徒のしる・・・口ヒゲは、初代大統領・バニーサドルを支持する人々の象徴・・・ヒゲなしは、西欧主義者・・・　その頃のイランの男性は、ほとんどがアゴヒゲを伸ばしていた。　しかし、現在では保守派と、無精者がヒゲを伸ばしているようである。]]></description>
 <category><!-- 02 -->文化</category>
<comments>http://www.naimatravel.com/?itemid=782</comments>
 <pubDate>Mon, 5 Jan 2009 13:58:03 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>モスクとバザール</title>
 <link>http://www.naimatravel.com/?itemid=780</link>
<description><![CDATA[イランでの昔ながらの町の構造として、町の中心にはバザール、モスク、そしてハマームがある。　そして、それらの周囲に、マドラサ（学校）や隊商宿が造られている。　<b><font color="#294988">イランの古い町（旧市街）の基本構造</font></b><br />
イランでの昔ながらの町の構造として、町の中心にはバザール、モスク、そしてハマームがある。　そして、それらの周囲に、マドラサ（学校）や隊商宿が造られている。　バザールは、市場、モスクは礼拝堂、ハマームはお風呂であるが、中世のヨーロッパの町の構造とも似ている。　中西ヨーロッパの町にも、町の中心に、市場、教会、泉（井戸）があった。　古今東西、人々にとって必要なものとはどこでも同じなのでしょう。　イランの古い町（旧市街）を見学する時に、町の構造を頭に入れながら見学するとよいのではないでしょうか。<br />
<br />
<a href="http://www.naimatravel.com/media/2/20080728-iran_isfahan 2.jpg">null</a><br />
　<br />
<b>バザール</b>　　<br />
同じイスラム圏でも、アラブ人がスークと呼ぶ市場は、イランではバザールと呼ばれる。　バザールは屋根つきでレンガで出来たドームが連なって屋根になっており、夏の暑さ、冬の雨風を防ぐために工夫されている。　バザールに入ると、ドームの連なった天井に小さな明り取りの穴が開いている。　うす暗く、細い通路が続いており、その通路の両側には、小さな奥行きも狭い店がぎっしりと並んでいる。　迷路のようである。　店は１階のみで２階は無い。　奥にも部屋は無く、店主は、バザールの外で住んでいる。　バザールではあらゆる日常品が、売られているが、生鮮食料品は、別の場所や青空市場で売られることが多いのでバザールにはない。　バザール内は、区画整理されていて、同じ商品を扱う店が同じ区画に集められている。　これは、買う側にとっては同じ区画の中に、同じ品物を扱う店が沢山集まっているので、商品の比較が出来て便利である。　店には壁から天井まで、狭い店内にぎっしりと商品が置かれている。　狭いスペースになるべく多くの品物をならべることがバザールでの商品陳列方法らしい・・・・・　　エスファファーンのバザールなどには、日用雑貨だけではなく高価な貴金属、あるいは観光客相手のお土産を販売している店もある。　これらの店では、値引き交渉もできるが他の観光先進国ほどの値引きは今のところはない。 バザールの細い迷路のような通路を歩いていると、その先に突然明るく、広々とした空間が開けることがある。 この空間は、隊商宿（キャラバンサライ）と呼ばれるものの中庭である。　隊商宿は、ほぼ立体正方形をしていて、中庭の周囲を沢山の部屋が取り囲んでいる。　これらの部屋は、宿舎、事務所、倉庫などとして使われていた。 その昔は、地方から運ばれてきた商品がその中庭に集められ、商人達の間で品物の売買取引が行われた。 現在の隊商宿の中庭には、池や噴水、木々が植えられ、バザール散策途中にちょっと一息つくにはよい空間となっている。　バザールの中には他にもモスク、マドラサなどがあり、それらの中に入るとバザールで買い物をする人々の喧騒がうそのように静かである。商取引きの空間と宗教的空間が同じ場所にあるのはなりやら不自然にも思うのだが・・・<br />
<br />
<b>モスク</b>　　<br />
モスクはイスラム教徒が礼拝を行う建物であるが、イランのモスクの特徴にはドーム・タイル・イワーンの３つが上げられる。　ほとんどのモスクにはこの３点セットが見られる。　エスファファーンのイマームのモスクを見てみると、四角形の中庭はその周囲をアーチの回廊で取り囲まれているが、その回廊は、青いタイルで覆われている。回廊は２層になっていて四辺の中央にそれぞれ「イワーン」と呼ばれるおおきなアーチが立っている。　南側の一番おおきなアーチ（イワーン）の両サイドには細いミナレットが２本建てられている。　メッカの方向を示す壁のへこみ（ミフラーブ）がある礼拝室の上には、青いタイルで覆われた大きな高いドームが上がっている。　イワーンもドームもその起源は、ササン朝ペルシアの時代で、ドームはゾロアスター教の神殿で用いられていたもので、イワーンは、　王宮の建物に王様の権力の象徴として用いられていた。　タイルでモスクの壁を覆うという習慣は、１４?１５世紀ころより行われるようになった。　外壁やドームをタイルで覆う手法は、中央アジア、イラン、アフガニスタンなどのモスクに見られる特徴でペルシア文化圏で見られる。 トルコでは、タイルはほぼ建物の内部のみに使われ、シリア・エジプト等のアラブ世界ではタイルは使われない。 モロッコではタイルも使われるが色・デザインは、イランとは随分違っている。　特に「青」を多く使うのは、ペルシア文化圏の特徴である。 また、モスクはその機能によって２種類に分けることが出来る。　「金曜日のモスク」と一般のモスクである。　金曜日のモスクには、金曜日の大礼拝の時にイマームが説教を行う説教段（ミンバル）がある。多くの人々が集まるため規模も大きい。　人々の集会所のような役目もある。　それ以外が一般のモスクで、バザールや住宅地のあちらこちらにある規模の小さなモスクである。集団礼拝のためのモスクではなく、日常の礼拝の時に人々が利用する小規模モスクである。　バザール（商業）とモスク（宗教）という一見関係の無いように思われる２つのものであるが、実はこの二つはイスラムの喜捨（ザカート）の習慣から結びついている。　これは、富める者がその財産の一部を寄進する制度でもあるが、経済的に成功した人々がその財産の一部をモスクやマドラサなどの宗教的建物の建設に寄付をすることがよくあった。　モスクが建設されるとその建物の管理が必要になる。　管理運営にはまた資金が必要で、その資金調達のためにバザール、隊商宿などの商業施設をモスクと一緒に建設する方法がとられたのである。　以前、バザールの中で店を開くにはそのテナント料を払わなければならなかったし、隊商宿の利用にも料金を払った。こうして得た利益をモスクの運営管理費として利用していたのである。　近年では、こうした昔からの町の構造には変化が見られるが、イランの人々にとってはバザールとモスクはその生活からは切り離せないもののようである。<br />
]]></description>
 <category><!-- 02 -->文化</category>
<comments>http://www.naimatravel.com/?itemid=780</comments>
 <pubDate>Mon, 5 Jan 2009 13:47:20 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>ゾロアスター教</title>
 <link>http://www.naimatravel.com/?itemid=778</link>
<description><![CDATA[イランにイスラム教が広がる前、紀元前１，２００年から１，０００年頃、イラン高原東北部に住む、ゾロアスターによってとなえられた。<b><font color="#294988">ゾロアスター教</font></b><br />
イランにイスラム教が広がる前、紀元前１，２００年から１，０００年頃、イラン高原東北部に住む、ゾロアスターによってとなえられた。当時、彼の考えは革新的なもので、ユダヤ教より先に天地の創造主である神への信仰、死後の審判と天国の存在。世界の終わりに現れる救世主などへの信仰をといた。善霊アフラ・マズダと悪霊アーリマンがこの世の中で対立しているという二元論をとなえた。人間は、自分の意志に基づいてこの世の中の善と悪の戦いにおいてこのどちらの側につくことも可能であるが、悪の側についた者は最後の審判で罰を受ける。ゾロアスター教では、火・水・大地を神聖視するため拝火教と呼ばれたり、風葬、鳥葬という独特の習慣を生み出した。　<br />
ゾロアスターは、アフラ・マズダを正義の神・全知全能の創造神とするが、この考えは、それより前にすでにオリエントの地域に存在していた。ゾロアスターはそれを故郷のメディアで継承した。彼は、アフラ・マズダの啓示により、善と悪の対立、最後の審判、世界の終焉、善の神の天使の働きなどを系統的に提示した。これはちょうど同じ時代の仏陀の考えと同じ救済宗教の考え方である。ゾロアスターは、メディアを追われてしまうが、ダリウス大王の父、ヒュスタス・ぺスの保護を受け、その後、光の神ミスラや水の神アナヒタも採用し、本来のゾロアスター教よりやや遠ざかったりもしたが、キュロスにより、囚われの身から開放されたヘブライ人達によってゾロアスター教の二次元的終末論が採用された。それにより、モーゼや預言者達の一神教が確立し、ユダヤ教の成立へと進んでいた。　ゾロアスター教を中心とするイランの宗教文献は、ササン朝の王達によって４世紀から５世紀に「ゼンド・アヴェスタ」として聖典化された。<br />
ゾロアスター教は、アケメネス朝ペルシアが西アジアを統一すると、その国家の信仰の中心となりペルシア人の思想を支配した。　イラン人の宗教として、７世紀以降のイスラムの侵入までイランの人々の信仰のよりどころとなっていた。イスラムがイラン国内に入り、各地で大発展を遂げると次第にゾロアスター教は少数派となり消滅していった。　　　<br />
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<a href="http://www.naimatravel.com/media/2/20080728-iran_yazd zoroaste jiin.jpg">null</a><br />
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<b><font color="#294988">ヤズド</font></b><br />
ヤズドは、イラン南東部にあるオアシスの町である。　人口十数万人の中規模の町で、小麦、野菜、ピスタチオやアーモンドなどのナッツ類が生産されている。 ゾロアスター教徒が集団で住んでいたイランでは最後の土地だった。 イスラムが大多数となった時代には、ゾロアスター教徒に対する職業上での差別や居住制限は厳しいものであった。 １９世紀の中ごろ、ヤズドでは、ゾロアスター教徒は、普通のイラン人の着る服は禁じられ、生成りの染色していない物しか身に付けられなかった。 また、バザールには、その一区域にしか入ることはできなかったし、馬に乗ることを禁じられ、イスラム教徒には物を販売することができなかった。 　しかし、１９世紀から２０世紀にかけてインドに住むパールスィが経済力を持つようになり、イギリスの後ろ盾を受けてイランの中央政府に圧力をかけてゾロアスター教徒たちの状況も改善された。　イランではじめての普通教育・・・特に女子の普通教育はヤズドのゾロアスター教徒の間で始まった。教育を受けて職業の選択の自由を得たゾロアスター教徒達はテヘランへと出て行った。<br />
ヤズドに住むゾロアスター教徒達は独特の風習を持っている。彼らは、遺体を風葬、または鳥葬という独特の方法で葬った。彼らは、火や水、大地を神聖なものとみなしたので、死体でそれらが汚されることを嫌った。　彼らは、町のはずれの岩山などの上に遺体を置き、鳥に食べさせたり、自然の乾燥に任せて処理をした。　その遺体を置いた塔の様な形のものがダフメで、通称「沈黙の塔」と言われる塔である。ヤズドの町のはずれにも有る。<br />
女性の服装では、シャルヴァールというモンペのようなズボンをはき、カミースという丈の長いブラウスを着ている。　イスラム教徒のようにスカーフなどで髪の毛を覆い隠す習慣は無いが、現在はイスラムの習慣に従いスカーフを巻いている。またスカーフの模様も小さな花柄模様が多いようである。<br />
今でも多くのゾロアスター教徒の住むヤズドでは、ゾロアスター寺院・・・建物自体は新しいが、１，０００年以上絶えることなく燃え続ける聖なる火、ゾロアスターの肖像などが展示されている。　沈黙の塔・・・小高い丘の上に、石作りの塔がある。鳥葬の場所である。レザー・シャーが２０世紀初頭に鳥葬を禁止してからゾロアスター教徒も土葬になった。　また、ヤズド近郊には、チャク・チャクというゾロアスター教の聖地が有る。毎年６月下旬に各地よりゾロアスター教徒が巡礼にやって来る。　　]]></description>
 <category><!-- 02 -->文化</category>
<comments>http://www.naimatravel.com/?itemid=778</comments>
 <pubDate>Mon, 5 Jan 2009 13:34:39 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>ペルシア絨毯</title>
 <link>http://www.naimatravel.com/?itemid=776</link>
<description><![CDATA[ペルシア絨毯を購入する時には、表を見るのと同時に絨毯の裏側をよく調べてみることが必要である。絨毯の値段は、大きさ、デザイン・色合い、結び目の細かさによって決まる。イランの人達にとって生活の中に絨毯は不可欠な品物です。　上質のものは車一台分の値段位するものも珍しくありません。また、本当によいものは使用しても値下がりしないし、使用した物の方が色も落ち着き、むしろ年月がたった物の方が値段が上がります。絨毯は、イランの人達にとっては　「金」と　同じように財産価値の充分ある品物でなのです。<br />
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<b><font color="#294988">ペルシア絨毯を購入する時</font></b><br />
絨毯購入の時には、表を見るのと同時に絨毯の裏側をよく調べてみることが必要である。絨毯の値段は、大きさ、デザイン・色合い、結び目の細かさによって決まる。 結び目のことを　「　ノット　」、ぺルシアでは　「　ラジュ　」　という。絨毯の表だけを見ていてもなかなか結び目の状態は解らないが、裏をみて、できれば数枚の絨毯を比較すると結び目の細かさが解りやすい。　また、裏側を手でなでてみてもある程度の結び目の状態がわかる。　そして、絨毯をたたんでみる。たたんでみると絨毯のひずみが解る。 糸の長さが異なるためひずみが出来る。 ほんの少しのひずみも、年月とともに大きくなっていくので注意が必要。　また、たたんでみると縦横のデザインが対象になっているか、中央にくるべきデザインが中央にきているかが調べられる。<br />
<b>色合いについて</b>・・・ あざやかなペルシアブルーは、合成染料を使用している。天然の染色の場合は、色がくすんでいて、染めむらもあ。合成染料を使用している物は、年月がたつとどんどん色落ちしていく。　きれいな、鮮やかな色であればあるほど色落ちは激しいと思う。名前入りの絨毯もあてにはならない。大して有名でもない職人の名前が無造作に入れられている場合も多い。<br />
<b>値引き交渉</b>・・・　絨毯購入時も全て交渉制で定価はない。　絨毯を（特に裏側）をよくチェックして難点を持ち出して値引き交渉に当たってもよいのではないでしょうか・・・・・・　「　あなただけは　特別価格　」　などという相手の小細工に惑わされないように、こちらも嘘でもこの際よいので、　「　○○○店では、同じものがここの半額で売られていた！　」　と言ってみるのもひとつの手・・・・・・　よい物、確かなものを購入するには、目の利く人と一緒に買いに行くのが一番よいのですが、そうばかりもいきません！　絨毯のお店にいざ入っても、ポーカーフェイスで欲しそうな顔は絶対に見せない。　ジュースやチャイが出されることが多いのだがこれらは、お店側が、客をすぐには放さないための手段。　お茶に惑わされる必要はない。　そして、もし２?３日の余裕があるのであれば、初日の来店では購入せず、２回目、３回目に勝負に出る。　そして、心を鬼にして相手が怒るくらいの最低値から交渉をはじめる。　相手も商売なので、損をしてまで売ることはありませんので・・・・・　ペルシア商人はしたたかで、なかなか手ごわい！　よく買い物をしてしまった後で、　「　ボラレタ！！　」　となげく日本人観光客も多いのですが、実際プロのペルシア商人に観光客が太刀打ち出来るはずもなく、絨毯購入時には充分注意してかかった方がよいと思われますが、自分がとりあえず納得して購入したのであれば、たとえ後でもっと安い絨毯（同種）のものを他の店で見つけてもボラれた！と、悔しがったり、後悔しないようにして下さい。 　それは、　ご自分の商取引の結果なのだから・・・・・・・]]></description>
 <category><!-- 03 -->特産・お土産</category>
<comments>http://www.naimatravel.com/?itemid=776</comments>
 <pubDate>Mon, 5 Jan 2009 13:23:04 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>イラン　＝その歴史早分かり２</title>
 <link>http://www.naimatravel.com/?itemid=773</link>
<description><![CDATA[アラブ（イスラム）の侵入後、イスラムを受け入れたイランのその後の歴史をみてみましょう。ホメイニ師によるイラン革命まで、<a href="http://www.naimatravel.com/media/2/20090104-iran　タイル.jpg">null</a><br />
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<b><font color="#294988">アラブ（イスラム）の侵入</font></b><br />
アラブ（イスラム）の進入によりペルシア文化は次第にイスラムに吸収されていくが、イスラム帝国がウマイヤ朝、アッバース朝と移り変わるにつれて、イラン人のイスラム帝国内での立場も次第に変化していく。９世紀中頃になるとイラン東部にはイラン人による地方政権が立てられるなど、バグダードのイスラム帝国（カリフ）を支持しながらも実質的にはイラン人の王朝が再び興亡するようになる。中でも９世紀後半にブハラ（現ウズベキスタン）を首都として興ったサーマーン朝の時代には。アラブの進入以来２世紀にわたってストップしていたペルシア語による文学作品、他の発表も再開された。（イブン・アリー、フェルドウスィー等が活動をはじめたのもこの頃である。）イスラムを受け入れた新しいスタイルのイラン文化の開花が次第に進められていくようになる。<br />
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<b><font color="#294988">トルコ系、モンゴル系の支配者（セルジューク朝、イル・ハーン朝、<br />
チムール朝）</font></b><br />
モンゴル高原に居住していたトルコ系の諸部族は次第に西へと移動し、９世紀の頃はイスラム帝国内の奴隷として、１１世紀になると部族単位でイスラム帝国の中心へと徐々に進入してきた。やがて彼らは奴隷から軍人へと成長し、現アフガニスタンにカズナ朝をうち立てた。そのカズナ朝をやぶったのが、中央アジアからイラン、現在のシリアにまたがる広い地域を治めたセルージューク朝である。トルコ系の諸民族の進入はアラブの進入とは異なり徐々にゆっくりと進められたので、先住民の文化を穏やかに吸収し共存していった。そして、１１世紀の頃には、イスラム世界の中心的な大帝国（王朝）となる。現在のイランには、トルコ系の言語を話す人々が暮らしています。<br />
トルコ系のの人々の次に台頭してきたのがモンゴル系の部族である。モンゴルの進入は各地を徹底的に破壊する征服的な進入で、最初に姿を現したのは８世紀の中頃でした。しかしその後、モンゴルも安定した支配と統治を求め、１3世紀の中頃にイランにイル・ハーン朝を立てる。この頃のモンゴルはイスラムの文化を受け入れ共存するようになる。やがてイル・ハーン朝が衰退すると、１４世紀のはじめになると第二のモンゴル系部族の侵入がはじまる。これによりイランは、やがてサマルカンドを首都としたチムール朝の版図に組み込まれていく。しかしこの時代には、イラン・イスラム文化の美しい建造物が建てられた。チムール朝が衰退すると１５世紀にが西イランで遊牧民が建てた王朝が興亡するがいずれも長くは続かず、軍事的混乱期（戦国時代）となる。<br />
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<b><font color="#294988">イスラム（シーア派）を国教としたサファビー朝</font></b><br />
１６世紀初頭、混乱していたイランを統一したのが、サファビー朝である。スーフィー教団だったサファビー教団は次第に政治に関与するようになり、シャー・エスマイール１世の時代にイラン全土を統一し、シーア派１２イマーム派を国教とした。最盛期は、シャー・アッバース１世の時代で、首都はイスファハン。現在のイラン人とイランの国の宗教的基礎がここから始まる。サファビー朝は１８世紀のはじめに進入して来たアフガン人により滅ぼされ再び混乱期へと入る。<br />
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<b><font color="#294988">イランを再統一したガジャール朝</font></b><br />
混乱を収めようとナーデル・シャーが一時イランを統一し、インドのムガール帝国へも攻め込むが、暗殺されイランの混乱期は尚も続く。１８世紀末、ようやくイランを再統一したのがガジャール朝。しかし、この時代は、西欧諸国、ロシアとの戦いの時代でもあった。ロシアに対しては戦争で領土を失い、イランは英・露に対して半植民地的な立場となってしまう。時の宰相アミール・キビールらが改革運動を進めるがうまくいかず、宮廷内の勢力争いも多発。そんな中で、１８４８年から５２年間の長きにわたって統治したナーセロッディーン・シャーの時代は古き良き時代と語られることも多い。<br />
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<b><font color="#294988">２０世紀のイラン　＝イラン革命まで</font></b><br />
２０世紀に入ると立憲革命（１９０５年・・・１９１１年）を経て、ガジャール朝は倒れる。１９２５年、レザー・シャーが即位しイラン最後の王朝・パフラビー朝が成立。これにより西洋化、近代化が急速に推し進められる。そして１９７０年代のイランは、オイルマネーに沸く。しかし、富の分配の矛盾、農村の荒廃、人々の経済格差など社会的に様々な矛盾を生み人々の不満がつのり、１９７９年、指導者ホメイニ師によるイラン革命が勃発。これにより、パフラビー朝は滅び、イスラム勢力が完全にイラン国内で主導権を握るようになる。強い反米政策と独自のイスラム政体を築いた現在のイラン・イスラム共和国の誕生である。]]></description>
 <category><!-- 01 -->お役立ち情報</category>
<comments>http://www.naimatravel.com/?itemid=773</comments>
 <pubDate>Sun, 4 Jan 2009 18:16:32 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>イラン　＝その歴史早分かり１</title>
 <link>http://www.naimatravel.com/?itemid=769</link>
<description><![CDATA[アラブ（イスラム）の侵入以前のイラン（ペルシア）の歴史をごく簡単にひもといてみましょう。　 <b><font color="#294988">アラブ（イスラム）の侵入以前</font></b><br />
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<a href="http://www.naimatravel.com/media/2/20090104-イラン写真　１ 231.jpg">null</a> <br />
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<b><font color="#294988">アケメネス朝以前（エラム人とメディア人）</font></b><br />
紀元前３，０００年の頃、メソポタミア文明が起こる。そのメソポタミアの東の山地を越えると海抜５００ｍ・・・１，０００ｍの高原地帯に入る。そこは乾燥した遊牧の地域でイラン高原への印欧語移住民の侵入路となっていた。紀元前のイラン高原には農耕、牧畜、狩猟などのさまざまな生活形態が未成熟のままの原始的な村落が点在していたと考えられている。そんな先史以前のイラン南西部、スサを中心にエラム人による国家形成が始まった。　彼らは、メソポタミアとイラン高原との間の交易を仲介する立場にあり楔形文字を借用し、錫、原鉱石などを持ち込んだ。エラム人は、メソポタミア侵入を繰り返しながら紀元前１３世紀の頃最も繁栄するが、アッシリアがバビロンを征服した時、それと運命を共にする。　エラム人が興亡を繰り広げていた一方で、イラン高原北部カスピ海西岸と東岸の地域では、印欧語族のアーリア人が次第に支配的な立場になってきていた。　アーリア人は、トルコ東部やユーフラテス川上流域にも入ったが、別の集団がイラン高原を目指し、北西部と北東部の両方から南下した。その中の一つの部族メディア人は、多数の家畜を連れて遊牧生活を送っていたが、紀元前８世紀の頃、エクバダナ（現在のハマダーン）に王城を構え、メディア王国を建てた。メディアの文化は、アッシリアの強い影響下にあり、独自の文化の発展はほとんど見られなかった。　メディア王国は、三代目のキュアクサレスの治世の時に最も強大になった。彼は、ネブカドネザルに娘アミュティスを嫁がせ、インドから小アジアまでの広大な交易路を確保したように見えたが、征服は不完全であり統治組織も整っていなかった。　またキュアクサレスの次のアスティアゲスは、暴君であり次第に庶民の人気を失い、紀元前５５０年にキュロスによって滅ぼされてしまった。　その後、全オリエントに安定した支配体制を敷くアケメネス朝ペルシャが登場してくる。<br />
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<b><font color="#294988">ペルシア帝国（アケメネス朝ペルシアとぺルセポリスの建設）</font></b><br />
このアーリア人の部族は、パルサ地方（現在のファールス州）に定着したのでペルシアと呼ばれるようになった。紀元前７世紀の中頃には、すでにエラム人に圧力を加えていた。キュロスは、メディア王アステュアゲスの娘と結婚したが、彼の父カンビセス１世は、アステュアゲスの別の娘と結婚して彼を生んだのでキュロスの母と妻は姉妹であった。　キュロスは、イラン高原からアナトリア、ガンダーラからぺシャワールまで征服してゆく。次のカンビセス２世は、エジプトまで征服を推し進めたが、エジプトからの帰還途中落馬事故で亡くなってしまう。やがて登場するのが、キュロス一族とは傍系の家系出身であった、ダリウス１世。彼は、キュロス家の影響力を一掃して紀元前５２２年にアケメネス朝を確立した。　権力の座に付くとダリウス１世は諸国の反乱を力で鎮圧し、中央集権化に乗り出した。　公用語をアラム語とし、多民族を支配する帝国ではあったが、その文化、宗教には寛容であった。ペルセポリスを建設し、「王の目」、「王の耳」と呼ばれる隠密を配備し、オリエントの中央集権体制を確立した。ダリウス１世の後の王はあまり有能ではなかったが、彼の確立した統治体制のお陰により、アケメネス朝ペルシアは、２００年以上続く。　<br />
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<b><font color="#294988">アレキサンダー大王の登場（セレウコス朝）</font></b><br />
アレキサンダー大王が２０歳で即位した頃のマケドニアは低開発国で、南方ギリシアの都市国家郡は、長期に渡る戦乱で衰退していた。　その頃までにギリシア人は、ペルシア軍に傭兵として、あるいは商人、職人としてペルシア帝国の中心に進出しており、ペルシア人 とギリシャ人は相互によく知り合っていた。　当時のマケドニアの宮廷にとってペルシアの富は羨望の的であった。　そんな中、アレキサンダー大王は、ダーダネルス海峡を渡った。彼はエジプト、北アラビア、そしてついにはペルシア帝国を滅ぼした。　ペルセポリスを破壊し、ペルシア帝国の行政と宮廷の組織を受け継いだ。アレキサンダー大王は、紀元前３２３年にバビロンで３３歳で亡くなるが、彼はその後その大帝国をどのように統治してゆくつもりだったのだろう？！　彼の打ち立てた大帝国により東西文化が融合し、ヘレニズムの時代が訪れる。　彼の死後、将軍達は広大な帝国を分割することも、解体する事も認めず、互いに大王の後継者を主張し、実力による王座争いを展開した。紀元前３０６年頃、イランの地ではバビロニアのセレウコスが王を称した。セレウコス朝は、当初アナトリアまでを支配したが、次第にその領土は縮小し、紀元前６４年にローマの将軍ポンペイウスによって滅ばされた。<br />
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<b><font color="#294988">パルティア（アルサケス朝）</font></b><br />
セレウコス朝期、すでにカスピ海南東部では、パルティア人が独立を果たし、その指導的部族アルサケス朝の支配下に征服を推し進めていた。ミトリダテス１世の時にイラン高原とメソポタミアを支配下に収め、クテシフォンの王宮を建設した。　パルティア人は、アケメネ朝の統治組織を継承し、中央集権体制を確立しようと努力した。また、インド洋を利用する海路と中央アジアの隊商路によって、ローマと中国の交易の仲介をした。しかしながら後に勢力をオリエントに広げてきたローマと死闘を繰り返すことなる。　パルティアの支配者達は、最後まで国内の地方勢力を完全には押えることはできなかった。やがてアケメネス朝の故郷、パルサから起こったササーン朝のアルダシール?世によって２２６年に滅ぼされてしまう。<br />
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<b><font color="#294988">ササーン朝ペルシア（ササーン朝）</font></b><br />
アルダシール?世の息子・シャープール１世は、アケメネス朝を回復し、当方は、インダス川流域に軍を進め、北方サマルカンドを平定し、西方アンティオキアを占領。ついには、ローマ皇帝をも捕虜とした。　ササーン朝は、パルサ地方を拠点とし、ゾロアスター教を国教とし、中央集権化に勤めた。６世紀頃、ホスロー１世の時最盛期を<br />
　迎える。　ササーン朝の王達は、税制や軍制の改革、官僚育成のための教育管理、交通網や灌漑設備の完備などの改革を進めた。　ホスロー?世の死後、一時分裂状態になるが、ホスロー１世の時代に最大領土となる。小アジア、パレスチナ、エジプト、アラビアなどをも占領した。　しかし、彼は暴君であり、ティグリス川の大氾濫、軍備調達の為の重税などにより、次第に国内情勢が不穏な状況へと流れていってしまった。　こうした状況の中、アラビア半島から、アラブ人の移住が盛んになってくる。　そしてこの約４００年間続いたササーン朝ペルシアは、やがてアラブ人によって滅ぼされることになる。<br />
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<b><font color="#294988">アラブの侵入（イスラムの侵入）</font></b><br />
７世紀の初頭、アラビア半島のメッカでムハンマドによりイスラム教という新しい宗教が興った。ムハンマドの死後アラブ人達（イスラム）は、アラビア半島から外へ大征服に乗り出した。当時の中東の２大勢力であったビザンチン帝国とササーン朝ペルシアは、その新興勢力にあっけなく滅ばされることになる。６５１年、ヤズデギルド３世の時であった。　その後、アラブ人による支配が始まり、イランは次第にイスラム化して行くこととなる。しかしながら砂漠の遊牧民であったアラブ人には、高度に発達していたペルシア帝国の支配権をそのまま受け継ぐことが出来ず、行政などにおいてはその事務処理などのあらゆる面でイラン系の人々が担当していた。<br />
]]></description>
 <category><!-- 01 -->お役立ち情報</category>
<comments>http://www.naimatravel.com/?itemid=769</comments>
 <pubDate>Sun, 4 Jan 2009 14:45:55 +0900</pubDate>
</item>
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